コンセプト


■ 「発展途上」は世に出してはいけないのか?

 

 ― 未成熟な「発展途上」は世に出してはいけない?

 ― プロフェッショナルが表現する芸術こそ至高であり、アマチュアな音楽に価値はない?

楽器や楽譜が容易に手に入る時代になり、演奏家が演奏する場所は沢山できました。シリアスミュージックは、プロフェッショナルだけでなくアマチュアでも趣味として嗜むことができるようになっています。アマチュアでも楽しめる趣味となってはいますが、西洋音楽の系譜を継ぐシリアスミュージックの世界には、「高貴な」「敷居が高い」「文化的な」イメージがまだ残っており、それらを「過度に」尊重する風潮がある、と感じる瞬間が、私にはあります。

■ 音楽と向き合う人に表現活動の機会を

 

私はこう考えます。

未成熟な「発展途上」であっても、世に問い、他人から評価を受け、そして他人からの評価を受け入れ、改善し、より良い表現活動に向けて財産として生かすべきだ。表現活動は制限されるものでなく、世に問い、評価を受けるための「試行錯誤の場」が必要だ、と。

■ 作曲家が「作曲家」であり続ける為に

 

演奏家については、演奏の「試行錯誤の場」は「機会がある方だ」と言ってもよいでしょう。しかし「作曲で表現活動を行う」作曲家には、一人で表現活動を行うには限界があります。作曲家は「作曲で表現活動を行う人」であり、その作品を表現するためには(作品形態にもよりますが)原則的には「演奏で表現活動を行う」演奏家が必要です。作曲家が表現活動を行う場-試行錯誤の場、世に問い評価を受け改善する機会は、演奏家よりもまだまだ少ないと言ってよいでしょう。

作曲家が作品を書き、作品が演奏される場があれば、作曲家は「作曲家」としてのアイデンティティを失わず表現活動を続けられる、作曲家の為の試行錯誤の場も演奏家同様必要である、と私は考えました。作曲家が「作曲家」であり続ける為に、作曲家の表現活動の場が必要なのです。

■ 21世紀に生きる私達が創る21世紀の演奏会

 

シリアスミュージックの世界では、過去に偉大な作曲家がたくさんいて、演奏会のレパートリーには困りません。何百年と経過した現代でもファンが生まれ続け、作品に対して様々な解釈が生まれ、そして演奏し続けられています。現代に生きる私たちでも学ぶこと得るものが多く、今も色褪せない作品たちは素晴らしいと思います。

ただ、せっかくこの21世紀に私たちは生きているのですから、作品も演奏も「現代の」私達が創る、21世紀の演奏会を開催してみたくないでしょうか?現存する作曲家の言葉や意図を聴き、作曲家と演奏家が一体となって作品を「完成」させる、そんな演奏会にも興味が湧きませんか?